教員の専門性とは

 最近、東京の先生や近畿の先生と、話をしたテーマである。教員採用試験の実態や、大学院までの修学もなく以前の学部卒と比べても専門性や力が落ちて来ているという話が発端である。しかし、現在の実態の中で何がその専門性と言えるのか。

 このことに課題・疑問を抱く先生方は多数おられる。昔、ある先生に私が言われたことを思い出す。「まだ力のない教員をどうやって伸ばせばいいんだ。」と言われるので、私が「生徒と一緒に学べばいいじゃないですか」というと、その先生が「教員はね、それができないんだよ。教員は何でも知っていて、生徒に対してこれは、こういうことこれはここが大切だと、ある意味上から目線で、正解を教えることが教員だと思っているからね」と・・・・

 それで本当にいいのか?・・・・・10年も前に言われたことをずっと疑問に思っていた。

すると昨日、奈良女子大附属の先生が「教員が学校での諸活動で、『イメージ』で語ることがある。学びの場面や取り上げる内容によっては、教員は『ニセモノ』だ、という自戒や自重を持って学びのデザインをしなきゃならないなあ」と感じたと言われていた。これは生徒を連れて、ある企業に行ったところ、そこの社長が「お前ら俺らの仕事全く知らないできてるだろ!帰れ!」と言われ、一旦学校へ帰って生徒達と話すときにふと、自分のいうことに疑問を持ったのだという。即ち、自分は、確かによく知りもしないで行った。その状態で学校へ帰ってきて、生徒の前で話すとき、自分の頭の勝手なイメージで適当?に喋っている。これは『ニセモノ』だよな、と思ったそうである。専門性への疑問の投げかけである。私は、教員の専門性の第一はイメージで語ることなく、生徒と一緒に活きいきと知り・学ぶ楽しさを分かち合える喜びを知っていること。教員は、知り方・学び方を知っていることではないだろうかと思う。また、こう自覚できる教員がいることが大切だと思う。

 即ち、生徒をその気にさせ、伸びてきた生徒が、自分を飛び越える瞬間を楽しめる事だと思う。これを神戸で、ある先生が「教員はファシリテーターでありコーディネーターであり、自分よりも可能性や能力を持った生徒を伸ばしていくことこそが重要だ」と言われた言葉を思い出し、その通りだと思う。教員は、教科の専門性を学び続けることは必要である。しかし現実は、院卒の教員は少なく、専門性を深めて普遍的な本質まで届くような研究を院で極めることも教員となってから続けることは至難の業である(知っている人で一人、W高校で教員をやりながら院にも行っている人がいる。オンライン授業が社会人院生としては、ありがたいとまで言われている)。

そうであれば、やはり教員は、学びの場をプロデュースし、ファシリテートとして興味の入口を示すと同時に、「本質」の入口を見えるようにすることで、どのようにすれば生徒がそれに気づくのかという観点・役割を担う。そういう文脈での「専門性」を持つことが重要と感じる。ある学校の大先生の口癖「生涯一学徒」の姿勢で生徒の前に立つことで、自分は学ばせてもらえる。そういう思いが、日本を世界を変えていくのではないだろうか。

この結果、生徒全員に一斉に同じやり方(過去においてある子において結果を出したやり方)を行うことはできなくなるかもしれない。

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