「大衆教育社会におけるフランスの高大接続」細尾萌子編(広島大学高等教育研究開発センター)

以前に、立命館大学の細尾萌子さん主催による、「フランスバカロレアの記述式とセンター試験記述式の比較議論」を行うオンラインイベントに参加した。

その時以来、細尾さんとは、度々オンラインによるお話をマンツーマンで行ってきた。今回、議論したものが冊子にまとめた。ということで早速送っていただいた。それが、表題の「大衆教育社会におけるフランスの高大接続」細尾萌子編(広島大学高等教育研究開発センター)という冊子である。
この1年間くらい、留学フェローシップをはじめとした様々なつながりから、海外の大学に進学した学生達(フランス・ハンガリー・マレイシア・アメリカ・ミネルバ等に進学)に話を聞いていて、感じたことがあったので、興味を持った。
今回の冊子の中で、細尾さんが書いたことを読んで思ったことがあったと伝えると、オンラインで話を聞きたいということで再びお話をした。論点としては大きく二つ

【バカロレアの仕組みと市民教育】
バカロレアは、まず入学試験には使われていない。資格試験である。これを通過すれば、基本的にどの大学にも行ける。そして、その内容は記述式である。しかも、そこで問われることが、日本人からすれば、なんてことを聞くんだという内容を含む。

しかし、当のフランスの人にすれば、「そんなに難しくない」と口を揃えて言う。それよりも大学に進んで、本気で向かわないと進級できなくなるし、卒業なんておぼつかなくなると言うのが学生達の共通した見解である。このことは、フランスだけでなくハンガリーでもアメリカでも、マレーシアでもミネルバでも口を揃える。日本の大学生達が言うこととかなり違っていると感じる。ミネルバは、そのオンライン授業が録画され、その授業中の発言やその中身まで評価されるため、必死で向かわざるを得なくなる。
更にいうと、フランスに行った子が言っていたが、普通に日常で、今日は午後こう言うデモがあるから参加して自分の主張をしてくる、と言うようなことを日頃普通に行っている。この辺も日本の大学生と違うところだといえる。

次に、バカロレアの内容についてであるが、今年の問題を受けた子から聞くと「恐怖政治について書け」と言うようなことが聞かれたらしい。

フランスでは、小中高と段階的に教科ごとの論述の型があり、それを分解して小中高と段階的に書くことで、バカロレアに臨んでいる。つまり、コンピテンシーベースの普及と評価が存在する。その内容もフランス共和国を構成する国民として当然学び、考えておくことが当たり前の内容のものを書かされて育つ。そういう教育をしてきた最終年の高校の教員がバカロレアの問題を作り、採点も行う妥当性が社会的に認められている。

ここには、日本で入試の点数となる共通テスト(センター試験)「公平・平等・信頼性」とは違う。専門家である教員が指針の基づいて採点しているから公正と言う「公正」の概念(階層等による不利がなく正当)が重んじられるため、記述式の採点に多少ブレがあってもそれは許容されている。これも仕組みが、資格試験か、入試の得点そのものとして扱われる差もあるが、内容的に、市民教育の到達点的位置づけも大きい。教員の専門性に対する社会的信頼、即ち、教員採用試験も論述・日頃から論述式の作問・添削をおこなっていることが大きい。しかも市民教育を通して知識をどう使うかという学力評価が以下のようにそのベースにある。
1)資料を分析して問いや仮説を立てる力、
2)資料から取り出した情報を比較・関連づけてまとめる力、
3)それを既習の知識と結びつける力、
4)それらを論理構成が一貫した文章で書く力、
5)以上を、考え・書き・話す市民に国が育てたいからである。
よって、3〜4時間かけて記述する複雑な課題を試験で課すことができている(大昔の京大入試を彷彿とさせる)。
ここにおける仕組みと内容に関しては、非常に見習うべきところがあると感じた。学んだことが、バカロレアで問われる(だから難しくない)、それが社会で生きる力にもつながっているといえる。

 

【バカロレア取得後の動きと進路指導】
ところが、細尾さんの著述では、バカロレアは、通りやすくなる一方で、やる気のない学生が大学に行って、結局ミスマッチもしくは、進級・卒業できなくなってしまう事態が多く出てきているらしい。そこでは、小中高と進路指導らしきものが満足にされておらず、日本よりもひどいかもしれないと言う実態が見えてくる。

大阪大学 田川千尋さんによると、バカロレアは、普通バカロレアの他に、技術バカロレアIUT(1967年)、職業バカロレアSTS(1985年)が設置され、その振り分けや3年編入時に振り分けることにより、そのミスマッチを避けようとしているらしい。しかも大学1年時に、アトリエと言うものを作り、そこでバディを作って議論を重ねることによりミスマッチを避けようとしている。また、更にそこで浮上してくるものとして、「社会的問い」に対する自己評価に基づいた進路を変える方法も編み出されているようである。

【以上から考える「本質的な問い」がつなぐ小中高大】

以上のようなことを前提として考えた時、各教科における「本質的な問い」を小中高と段階的に考え、それが入試にまで活かせるようになると大学とも社会とも繋がるものができるかもしれないと言うことを細尾さんにお話しした。それは、現状の入試で細尾さんが経験でお話しされていた、たとえば歴史を単に年号を覚えるのではなく、広くいろんな角度から捉え、俯瞰的にそのつながりを考える(まるでシステム思考のような捉え方)。現在の入試問題で見ると、比較的近いのは、東大の入試問題にそのような方向性を感じる。
発想としては、例えば、「1853年ペリー来航」と言う事実を丸覚えするのではなく、「年号の持つ意味・必然性を考える」と言う問いを立て、周辺の国の動きも考えていくと、その年に日本に黒船が来た理由も見えてくると言う学習をする。日本に開国を迫りたいアメリカ・ヨーロッパがいる。それぞれの状況はと見ていくのである。そうすれば、アメリカの西部開拓が進み、サンフランシスコに到達。1849年ゴールドラッシュサンフランシスコの誇りの年1849年・・・フットボールチームの「49’S」まで見えてくる。そこでヨーロッパを見ると、なにやら緊張感が高まってきている・・・・・そこでアメリカが黒船建造、日本へ・・・・みたいなつながりが見えるとそれは更に発展して疑問や問いも生まれる。

また、教科における「本質的な問い」を小中高と段階的に進め、そこに考え・書く・話すと言う要素を入れ込んでいくことで、自分の興味は、どこにあるというような、進路を考えるきっかけにもつながっていくと思うからである。

では、教員が小中高と段階的に、教科の「本質的問い」を立てられるようにするために「学校」「教育学部」では、なにをすればいいのかと言う議論になってくるかもしれない。一方で、バカロレアで問われる市民としての基礎力がその教科ごとの「本質的な問い」と併せて考えられるような状況が生まれると、市民教育は一層進むことになるかもしれないし、進路選択に対する探求もより深まる事になると思う。考え・書き・話しながら、まさに、「自分はなに」「他者はなにを感じ考え」「社会をみんなとどのように作るか」と言う視点が子供達の中に生まれてこないだろうか?

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