学校改革のすすめ そして 地方教育の理想形一つのやり方

一昨日、平井聡一郎先生と、昨日、三浦隆先生と話した。いづれの方とも互いの見解の一致を見ることができて、嬉しくなった。私の考えていることを記しておく。

1)学校改革のすすめ

学校改革の第一は、その学校の教育理念が具体化されていないことである。抽象的な校訓や教育理念のみでは、絵に描いた餅になって、スタッフがそこに向かって動くことができないという状況が多く見られる。これは、最初の都立小山台高校の改革に携わった時も同じであった。ただここで、トップダウンで方針・目標を具体化して「これでいきましょう」だけでは難しいということである(勿論幹部のところでの意思に合致・相互理解は大前提であるが)。しかし、中堅教員をベースとして全スタッフを巻き込み、当事者として議論し考えるプロセスが存在するかどうかが重要である。これがないと、改革など絵に描いた餅になってしまうのである。実は、このプロセス踏むことこそが、教員が今、生徒たちに向かい推し進める必要が求められている「探究的思考」そのものにも結びついていくのである。教員達が自分達で、学校の大きな目標・課題を見出し、互いに納得し、いかにより良い解決方法としては何があり、課題と解決において重要なことは何かを全員が理解できる言葉でアウトプットしていく。そして議論し、教員みんなの叡智を集めて良い形を作っていく。こうして目標・教育理念を具体化し、言語化し、他者の見解をよく聞き、さらに良いものにして協働していくその過程で、教員同士が「問い」かけを行ないさらに整理し考えていく。即ち、これはまさに今「探求」で求められるものである。これを、学校改革のプロセスとして大人が行なっていれば、生徒に対する問いかけの深まりや、探究活動・授業における大きなデザインの構築のためのものとしても意味を持ったものとしてつながっていく。

逆に言えば、現在具体的なイメージしやすい「教育理念」とも言える方針・目標がない学校においては、カリキュラムマネージメントさえも不可能ともいえるのである。そもそも、現在までの学校教育における教員は、一般的に一人一人が独立してその人の力量に任されており、学校運営や授業もいろんな場面で一匹狼的になされてきている「個業化」という現実がある。若狭高校におられた渡辺先生にお聞きしたが、生徒をこんな風にしていきたいために国語科では毎日ミーティングを行い生徒の反応や、工夫した結果の振り返り等を共有するそうである(学校が具体的教育理念を明確に持っているからこそできることである)。このように教科内における話し合いが「目標に向かうために」行われている学校は、非常に少ない。教科内での話し合いが起き、生徒の反応・他の教員の意見・教員が作成した資料等の共有があれば、教員の働き方改革にも大きく資する面もある。抽象的な方針・目標しかない訪問した学校で、「教科内での話し合いとかありますか?」と聴くと、「忙しいからそんな時間は取れない」「そんな学校あるんですか?すごいですね」「いや、教員にはプライドがあるからなかなかそんなことできないんだよね」という反応が多く返ってくる。こうした反応が返ってくる学校は具体的ビジョン・方針・目標不在の学校のままかもしれない。こうした実態を踏まえると、「学校改革」もまずは、目標・教育理念の設定・合致から始め当事者意識を形成し、次は組織として動かしていくところを行い、その後で教科へと向かう方がスムーズと言える。教科のところまでやってきてやっと、異教科間でのコラボレーションを(行事+総合+教科)学校全体で行うことが可能となる。このように私が学校でアドバイスしてきたことと同じ流れを三浦隆先生は、林野高校で実際にやってこられたと聞き、非常に驚いたと同時に嬉しかった。

2)地方教育の理想形の一つのやり方

先日、林業中心の岡山県の村に行ってきてその実態を見てきた。そこには保育園→小学校→中学校までしかなく、高校は村の外へ出ていくというところであった。ひと学年30名弱くらいしかいない村である。立派な図書館があり、村人が互いに支え合って日々の生活を行なっている。このような環境を見て私が考えたのは、小中を卒業して高校で村の外に行き、村を離れるような環境では、地元の村人が共に支えあってコミュニティを大切にしているかを理解・体験させにくいし魅力的な街にもし難い。そこで小中高を一緒にして一つの学校に校舎も統合してはどうかということである。校舎も一つにしてしまう。そこでは学年の概念も外して、指導の個別化と学習の個性化を徹底して、例えばイエナプランのようなやり方を導入するなどしていくやり方を提案したいと思った。(こういう話を平井先生に話すと、僕も同じような村に関わっていて同じようなことを提案しようとしていると言われていた)。そこでは、高校に入るための受験勉強や、大学に入るための受験勉強も中心にしない。例えば、小学校1年〜3年までが合体し、小学校3年生までにつけるべき力は、どういう内容の・どのレベルの力かを具体的に設定する。その上で、指導の個別化と学習の個性化を徹底していくのである。同じようにそれぞれの節目までにつけるべき力を明確にしておく。その節目までは、個々人の進度は遅くても早くてもいいし、生徒が互いに教え合ってもいい状況を作っていく。この村の学校に来れば、小学校3年では全員がここまでのレベルの力をつけることができるという状態を目指していくのである。同様に小学校4年〜6年。中学1年〜中学3年、高校1年〜高校3年とそれぞれの節目ごとの全員がつけるべき力を明確にしていき、どうしたら、その力をつけられるかを教員は常に話し合い共有しながら進める。その為には、日々の個別の力がどのような状況にあるかの観察は不可欠である。当然、こうした体制で向かう教育の拠り所は、物事の本質をどうやって子供達に捉えさせ理解させる機会を与えられるかという「問い」を、どう投げかけ考えさせるかにある。その結果として、入試にもここまでは通用したということにするのである。今の日本の学校においては、高校入試・大学入試に通ればそれでいい。実際に付けたい力とは別物のことが議論の中心にある。入試の内容に合わせた力をつけることに重点を置いているからである。入試が変わらなければ、それまでの教育は変わらないのか?「だって入試がこうだから!」という声さえ聞こえてくる。入試を突破するというためという「入試」に下駄を預けた取り組みではなく、この学校に行けば必ず全員ここまでのこのレベルの力を全員身につけるという基準を明確にするのである。勿論一足飛びに実現することは難しいかもしれないが、学校がそれを宣言し、生徒と教員で学校全体で試行錯誤していくのである。この過程で、村人が形成するコミュニティの中の素材を使い、村人の協力も得て、社会で大人が何に悩み、何をしているのかも掴む一助とする。その意味で「学校」は、地域のハブになるだけではなく、「村全体」を形成する大きな要素(未来を創る子供達を育んでいけるよう)になることが、人生観・仕事観を子供達が持ち、選択していける村になるかという意味で、村は非常に大きな財産(コミニティ感、一体感)を手にすることができる。

但し、本当のことを言えば、ひとつだけ気になっていることがある。それは現在日本で取られている6−3−3制である。高校課程の量が増えと抽象性が増加することを踏まえると、5−3−4制が妥当と私は思っている(実際アメリカのミドルスクール運動として、60%が4年制の高校に通っている)。

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