今求められる、学校改革とこれからの教育について

最近さらに、さまざまな学校の校長先生とお会いして、学校によりさまざまな状況が浮き彫りとなってきているのを感じる。
果敢にチャレンジし、試行錯誤しようとしている学校と、今までのやり方に、収束していこうとする学校に分かれてきていると感じる。

【日本の現状が抱える課題と教育の役割】
日本の課題に関して、近い将来即ち、今の子供達が社会で活躍する時代を考えた時、感じる「危機感」。今までの教育手法では、まずいという「危機感」を私自身強くしてしまっている。
今まで私が行ってきた数々の教員研修を振り返ってみた時、感じるのは、いい意味でも悪い意味でも先生方の真面目さが影響している様に感じるのである。
新しい提案をして、こういうやり方もあるかもしれません。と指針とヒント伝えると、よく返ってくる質問は、「じゃあ、どうすればそれはできるんですか?やり方を教えてください」という声である。
こちらとしては、指針とヒントを出しただけなのにも関わらず、「どうすればできるんですか」と答えを聞きたがられる場合が多いのである。気持ちは、わかる気もするが本当にそれが、その学校の答えになるのであろうか?

今まで、自分たちがやってきたことであれば教員は、わかるし自分なりに解釈してこうすればいけるかもと、なるようである。想像がつくものに関しては、まだいけるが、未知のことや未経験のことに関してはすぐ「やり方を教えて」になるようである。
例えば、今回の学習指導要領の著しい変更や、校長からこうしてくれと未知未経験の要望が突然出てきたとしても、自分が経験していないことに関しては、億劫となったり尻込みしたりする方が多い気がする。
これは
①「人自身は変化していきたいのだが、人は変化させられることに関しては、抵抗する」ということかもしれない。
または、
②長い間、日本の学校が、新任の時から「教員個人の資質をあげましょう」の名の下に、個々人の研鑽に期待・委譲され、それぞれが個人商店化してしまっているところが大きいのでは、と思ってしまう。
即ち、新任の時からろくな指導もなく、自分のやり方で現場にいきなり入る。その自分なりのやり方で、10年20年30年とやっていくうちに、自分の好きなことや、やりたいことを中心に経験を積む。そこにすぐに他人のやり方を受け入れることもしにくいプライドさえも生まれる。人によりすごく柔軟に吸収し試してきたことが、財産ともなるが、チームの力を発揮することは苦手であり、できていない。

勿論、教員となった以上、日頃から自分の仕事に関係することに関して、興味を持ち続け学ぶこと自体は必要である。しかし、それぞれの個人に対して、要求するだけで人は、学校全体はすんなりいくのだろうか?
現状の忙しい日常の仕事に向かいながら、大学院に通い、自分の専門性の研鑽を積んでいる教員がどれくらいいるだろうか?私は、数人しか知らないし、それを要求するだけでいいのだろうか?

【新たに始まる研修制度及びデータベース化について】
「そのために研修をちゃんと受けましょう!更新制度は不評だったのでやめたんですから」「研修履歴をデータベース化しますので」という文部科学省の意図は、個々人の努力を奨励しすぎていく気がしてならない。いい先生が、その学校に集まれば、いい学校になる、もしくは、いい学校にするには、それぞれの先生が自己研鑽を積むことがベストで、日本の教育の質を担保していく上では、不可欠である。という論理が第1義として裏にあると考えられる。
しかし、それだけで、本当にいい先生が居ないと学校は、変わらないのだろうか?
「いい先生ってなんなんだ?」という問いは曖昧にしたままである。これは裏返しとして、それぞれの学校にいる教員の発想にさまざまな影響を及ぼしている。
いい学校にするには、頑張っていない先生を辞めさせて、みんなやる気のある先生ばかりになれば、いい学校になっていく。という発想に繋がるし、現に、言葉にしていう教員も大勢いる。
この発想は、長く続いてきていて、今も日本の教育の根底にある最も重視すべき価値観を現しているのではないのだろうか。今の時代、これからの時代この発想が一番重要であるのか?一番重要というのであれば、仕組みとしてそれを担保するものを仕組みとして作り(例えばフィンランドのように、大学院出身者のみが教員になれるというような)、その上で教員個々人の話に持っていくべき話しではないだろうか。
長年修正されていない教育基本法の部分にある「人格の完成」と同じことを言っていないのか?
人格の完成に関して、熊本の遠藤さんは、「じゃあ、人格が完成していない自分は、社会で仕事をするのはおかしいのか?」と著書で述べておられる。

【考えられる重要な視点】
1)今ある資源を生かした組織運営
まず第1は、それぞれの学校が、今ある資源(人・金・もの)を生かした運営体制をどう作るかである。「だって、教員って学校の宝でしょ?」と言われた呉のS校長先生がいたが、まさにそうである。
では、どうすれば教員の資質を、チームとして上げられるのか?ここが肝になってくる。
そのために重要なことが以下のことである。

①それぞれの学校が、目指す教育・学校像等のビジョンの具体的な言語化
■麹町中学(工藤さん)は、
「人間尊重と相互信頼を基盤として、平和で民主的な国家及び社会の形成者を育成することを目指す。」
→(そのための目標)
1)自律:自ら考え、判断し、行動する
2)尊重:違いを理解し、他者を尊重する
3)創造:豊かな発想を持ち、創意工夫する

■ハイテックハイは、
「誰もが、人種や性別や、性的な意識や、身体的、もしくは認知的能力にかかわらず、同じように価値のある人間だと感じる学校」
→即ち「公正の原則」

この二つの学校の最初の文言を見てほしい。いずれも、具体的で明確であり、誰がこの言葉を読んでも誤解が生まれにくい言葉を使っている。

この2例のように、具体的で明確な言語化を行なっている学校は、日本では少ないのが現状であると思う。
なぜ、こうした具体的で明確な言語化を他の学校では行っておらず、抽象的な言葉を並べている学校が多い理由は何か?
先日、工藤さんならどう言われるかなと、オンラインで質問したところ、

「やる気がないんじゃないですか」の一言であった。

あまりにも痛快で明確なスカッとする言葉に、吹き出してしまった。

そうだよね!やっぱり!と思う反面、もしかすると日本では、こうしたことを言語化することの重要性が、もしかしたら軽んじられてきていたからではないのか。
と考えてしまった。昔から、「質実剛健」「自主自律」という漢字4文字校訓のみが挙げられている場合が多かったことも影響していると思われる。
こうした言語では、「わかるけどそれで・・・?」というイメージが強い。最近の例では、「グローバルな教育」などと挙げるところも増えてきたが、「グローバル」という文言これは読むすべての人が同じ解釈をするであろうか?外国語の強化ですよねという人もいれば、多様性のことでさうよねという人も生まれる。・・・・こういう言語化では、学校のビジョンがメンバー共通のものとして明確にならないのである。

更に、工藤さんがこの私の質問に関して、面白いことを言われていた。
麹町が、掲げた「人間尊重と相互信頼を基盤として、平和で民主的な国家及び社会の形成者を育成することを目指す。」という言葉、
「麹町中学の歴史を紐解いてみると、実は、明治維新の頃、この言葉とほぼ同じことが言われていて、その後それが変わっていき、再びそこに戻ったという形になっているんです。」
「しかし、その当時、日本をどうにかしたいという思いを持っていた人は、大切なことを明確に言ってたんだなあ・・・・ということに改めて気付かされました」と言われた。

この言葉を聞いて思い出したのが、
・慶應卒で、山梨の幼稚園の園長をされている岩田さんと、昨年東京でお会いした時、福沢諭吉の「学問のすすめ」に今求められていることが明確に書かれているんですよね・・・という話しや
・広島の公立高校で教員をされている黒瀬さんから教えてもらった「大村はまの実践に学ぶ」の中には、まさに現代において問題にされていることを、具体的に捉え実践している人がいたことなどを思い出した。

などである。
こうしたことを今一度、本気でみんなで考え、現代にバージョンアップした言語化ができれば、「よし!そのために頑張るぞ。」となりやすいし、
当事者意識が生まれやすいと思うのである。もちろんそのプロセスは重要であるが・・・

その上で
②そのビジョンに向かって教員同士が試行錯誤する重要性(教員の協働)
「そのビジョンに向けて、どうすればいいか!?」が初めて明確にメンバーに意識されることになる。
この典型的な例が、
福井県の若狭高校にいた、渡邉先生の例である(今は藤島高校)。
校長が、探究的な発想考え方を持った生徒を育成するんだの掛け声の元
現在のビジョンは、「異質のものに対する理解と寛容の精神」を養い教養豊かな社会人の育成を目指すであるが・・・

では、探求的思考を育むのは、週に1回の探求の時間だけでは、探求的思考は育まれないとして、渡邉先生は(国語であるが)、
「国語科の授業でどうやったら、探求的思考を生徒が身につける授業ができるか?」ということを毎日国語科の教員同士で、5分話し合っていたのである。

※ここで5分というのも肝かもしれない。
他の学校の先生方に若狭高校のこの例を話すと、「そんな時間ありません」「すごいですね」とよく言われる。
5分でいいんです。できませんかと伝えると、「それなら・・・」と言われる。
あくまでも明確なビジョンに対して、
それを教科の授業の中でも、部活動でもどうしたらできるのかという未知の分野にみんなで挑むのである。
その自分たちの実践を共有し合うということ自体が、重要な意味合いを持ってくるのである。
だって誰もやったことがないことに、仮説を立てて、自分たちは挑戦するのだから、互いの叡智と経験を持ち寄る。
まさに探究である。

もちろんその共有の5分が30分に伸びることもあったそうである。
そこでは、「自分はこうしてみたけど全く生徒が乗ってこなかった。」
「自分は、本質的な問いが投げかけられていなかったのじゃないか?」
「生徒が反応しなかったのはどこが悪かったのか?」

「自分のできなかったことを吐露する」教員同士の安心安全な場が学校にできたからである。
教員同士が学校のビジョンに向かって、自分だったらこうしてみよう!
そして、うまく行ったこともうまくいかなかったことも、
全て共有し、試行錯誤を繰り返すのである。ビジョンの実現のために・・・・

このように、各教員が個人の力のみで、授業準備をするのではなく同じ目標に向けて、どうすればそれが実現するのかを常に考えていくことこそが、「探究」そのものである。
すると、そうした大人(子供だった人)が必死に探究する姿こそが、生徒たちに伝わることが何よりも大きいのである。
結果的に、
教員も誰一人取り残さない環境が必要であるし、目標に向かった教員同士の協働こそが、学校の資源を活かす手立てになりうるし、
こういうことを可能にしている学校こそが、これからの時代生き残っていけるのではないだろうか?

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