オンラインセミナー(苫野一徳vs内田良)受講して

 

昨夜、苫野一徳先生(松山で講演を聴いた、哲学者・教育学者)と内田良先生(奈良女子大附属で講演を聴いた、社会学者)その他に弁護士嶋崎量氏、現役教員西村裕二氏が出ての「令和の校則」と題してのオンラインセミナーを受講した。校則がテーマではあったが、学校において起きる問題点が浮き彫りになっていて、非常に面白かった。2000名近く全国から参加したイベントであった。

これで一番印象に残ったのは、苫野先生が最初に、学校の課題を議論する上での前提を明確にしたところだと思った。「そもそも学校は何のために存在しているか」そこから考えるべきである。から始まり、学校で実りある議論「対話」をするためにというところが明快であった。

1)「一般化のワナ」に陥らない

 教員が、自分が経験したことをベースに議論することがあるが、それ自体は良いことなのだが、だから結論はこうだ!と一般化しないことが重要ということである。これは、実際学校現場での議論でよく見られる光景である。こうした場合は、この経験して感じたことにどのような条件が加われば、もしくは、整えれば一般化できるかをみんなで議論していくことが重要であるという。まさに私が学校で、議論しているときに、提言していることと同じであった。

①「問い方のマジック」にひっからない。

 例えば、対立する価値観があって、その場合に「どちらが良いと思いますか?」という「質問」をするとより一般化が決定的になる。実際は、対抗する価値観のどちらが正解でないものもたくさんある。どのような条件やどのようなことを整えれば、別の結論もありうるはずだが、それを無視して一般化されて決定する場合がある。即ち、こうしたままでは、議論がなされるわけでなく単に、互いが自分の経験のみを頼りに(1つの稀有な事例かも知れないのに)、一般化が行われてしまうのである。

②「信念」をぶつけ合うのではなく、お互いの「欲望」の次元に目を向け合う

 例えば、「これをすべきだ」「いや、こうすべきだ」という「信念」レベルの強烈な意見のみを突き合わせると、決して議論が交わることなく平行線を辿ってしまう。こんな時は、例えば一方が、「制服をきちんと着ないと規律が乱れてしまう」というようなことを考えているとすれば、このように一方が思っている具体的な理想像を(欲望を)出して議論をする。理想像(欲望)が出てきさえすれば、そこで一方は「そういうことであれば、このレベルで実際やってみて、様子を見てみませんか」ということを出せるようになり、議論は進む。ということである。

③常に「そもそも」に立ち戻る

 そもそも学校(教員・校則)は何のために存在しているか?を考える。主体的に生徒が伸びていくために・・・などと考えることで、変にぶれることを避けられる。

④学校(教員)vs生徒(世間・保護者)の構図にしない

 生徒も先生も、みんながより幸せに過ごせる学校をみんなで作り上げる、ということを忘れないように教員と生徒が上位目標を意識し、そのために対話を行う環境を作り、敵対関係を作らないようにしておくことが必要であるということである。

以上を前提として、議論を行い「対話」を行う、そんな環境を意図的に学校で作る必要がある。

 人は、人と人との間、すなわち社会の中で人とつながりながら暮らしている。社会には、立場や意見の異なる様々な人がいる。そのような中で、人は自分なりの意見を持ちつつ、人との間で意見を調整しながら、決められたルールの中で 社会生活を送っていく。人は社会の中で、人と支え合い助け合いながら暮らしているが、他方で、多かれ少なかれ人との関係でいろいろなトラブルや困難な場面に直面するものである。

判例や法令を見てみると以下のものがある。

①締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童が その児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に 自己の意見を表明する権利を確保する。この場合に おいて、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度 に従って相応に考慮されるものとする。(子どもの権利条約 12条1項)

②憲法26条の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有す る ・・・換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである。(旭川学テ事件最高裁判決)


③教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として 必要な資質を備えた心身ともに健康な 国民の育成を期して行われなければならない。教育基本法・1条【教育の目的】)

・・・・というように当たり前のように、生徒は学ぶ権利を持っているのであり、それを生徒は「自由」に自己表現できるし、国民としての民主主義に資する人材に育成すること自体が教育の本来の目的である。それに関して教育者は支配的な権限を有するものではなく、制約することさえあってはならない。ということが前提となっているのである。

ここでの前提としての「自由の相互承認」という苫野先生の言う言葉に行き着く。

 お互いを対等に「自由な存在」として認め合うルール。即ち、自分が享受する「自由」とともに、他の人が持つ「自由」を犯してはならないということが大前提となるという考え方である。これを土台として、お互いの「自由」を調整し合うことが求められる。これができる世界のことを「民主主義」という。これを学ぶのが「学校」であるはずである。ここにこそ、学校・教員は、何のために存在しているのか?という問いに対する答えがある。

苫野先生流にいうと、<全ての子供に「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、「自由」に生きるための力を育むためにある>ということになる。自分達の社会を自分達自身で作り合う社会こそが市民社会である。そこでルールとは、「自由」を奪うものではなく上から与えられるものでもない。各人の「自由」をできるだけ実質化するためにみんなでつくり合うもの(法律上にも明記してある)。であるとすれば、そこで必要不可欠なものは、「対話」である。教員はそれぞれが疑心暗鬼を持ったまま仕事をしている場面が見られる。例えば、「あの人がこんなふうにやっているから、このままでいいんだろう」とか「あんなことをやっている。きっとこう思ってやっているんだろう」とか思って仕事をしたりするのである。ここに上記に述べたことを踏まえて、「対話」があれば、「じゃあ、この仕事いらないね。」「だったら、もっとこんな形に変えよう」という意見が合意できたりして、無駄な仕事もなくなる。

今回の、オンラインセミナーを受講して、学校に対して自分がやってきたことが、方向性として間違えていなかったことをますます実感できた機会となった。

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